食道楽から食を読み解く

いまやグルメは特別な言葉ではありません。世界一の美食都市として知られるようになった東京では、食べることのできない料理はないのではないかと思うほど、国内外の様々な料理を楽しむことができます。

遡って明治時代、これまでの日本の庶民の食卓にも新しい料理や食文化が海を渡ってやってきました。この食の魅力を伝える小説『食道楽』が新聞に連載されると、これが大人気となり、同名の単行本『食道楽』も大ベストセラーとなりました。この『食道楽』が巻き起こしたグルメブームは、日本の食卓の近代化にも一役買うことになるのです。

食への探究心と行動力がもたらす食卓の変革

『食道楽』著・村井 弦斎、編訳・村井 米子(中公文庫、2018年)

この小説の中には四季折々の料理や食材が600を超えて登場します。今では国民食といわれるカレーのレシピも登場します。当時の庶民にとっては、憧れのハイカラ料理が数多く並んでいたに違いありません。

この小説の著書は村井弦斎です。ジャーナリストであった弦斎は、文才に長け、『食道楽』で小説家としても大きな成功を収めました。食道楽で得た印税で高大な敷地を神奈川県の湘南の地に購入し、野菜や果物、家畜といった食材のほとんどを自給し始めます。当時はまだ珍しいアスパラガスやアーティチョークといった食材も育てていました。東京から著名な料理人を呼び寄せては、出版社や各界著名人を自宅に招き、自ら育てた新鮮な食材を使って美食を振舞ったそうです。まさに「地産地消」を実行する人でありました。

弦斎は「小児には徳育よりも、智育よりも、体育よりも食育が先。体育、徳育の根元も食育にある」と「食育」についてもいち早く唱えています。珍しい料理で大衆の関心をひくだけでなく、そのレシピと料理法とともに、「鶏卵は生みたての新しいものが良い」といった食材の選び方や「料理では五美(味、香、色、形、器の美)を添えること」といった美味しさを引き出す料理のコツ、揃えるべき調理器具類、台所の衛生の大切さ、といったことについても単行本に記しています。嫁入り道具として重宝されたほどの単行本は、当時の台所を預かる主婦たちにとって、家庭料理に必要な知識を学び得ることができる強い味方であったはずです。

『食道楽』の人 村井弦斎 著・黒岩 比佐子(岩波書店、2004年)

ジャーナリストの弦斎は、自ら徹底した調査や取材を重ねて、大衆にグルメブームをもたらしただけでなく、家庭の料理や食卓に変革をもたらし、庶民の台所の近代化に大きな貢献を果たしましたが、自身の食に対する探究心と行動力は並外れたものでした。食材の自給では飽き足らず、自己の身体を実験台に、断食生活をひと月余りも続けたり、山中で半年間も穴居生活(小屋はあったようです)を決行して火を使わずに自然のものを生で食べる天然食を実践してみたりと、まるで仙人のような凄まじさで食の研究にのめり込んでいきました。

さて、弦斎を公私で支えた夫人の村井多嘉子も大変料理上手な才女でした。多くのレシピを世に紹介した料理研究家であり、多嘉子の著書『弦齋夫人の料理談』はレシピ本の走りといわれています。また、割烹着の考案者としても知られ、衛生面に配慮して料理が提供されることに貢献しています。脚気の原因がビタミンB1不足にあることが明らかにされていなかった時代に玄米に着目して研究していたことにも驚かされます。

『弦齋夫人の料理談』著・村井 多嘉子、編・石塚 月亭(実業之日本社、2020年)

弦斎と多嘉子が伝えた食の世界は、現代にも通用する学ぶべきことが満載です。古くても色褪せないグルメワールドを是非体験してみてください。

食マネジメント学部 教授 國枝 里美