2021.03.26

Column

旅と食。反芻される思い出

旅先で食べた何気ないひと皿。そのひと皿が旅を語る上で欠かせない要素になっている。そんなことってありませんか? 毎年のように訪れていた中華圏でのひと皿から、記憶を紡いでみました。

profile

  • 立命館大学食マネジメント学部 准教授

    加部 勇一郎(かべ ゆういちろう)

    専門は中国文学。去年から立命館で中国語を教えています。好きな食べ物は、ここ数年はとくに羊肉です。クミンや唐辛子と一緒に炒めたり、猛烈に辛い鍋料理(いわゆる「火鍋」)に入れて、白ゴマやピーナッツのペーストと和えたりします。

お米を主食としない地域で白米を食べたくなった旅人

インターネットは、遠い異国の人や物を眼前に映し出し、見たり聞いたり、といった欲望を満足させますが、味わったり嗅いだり、といった欲望についてはまだまだです。なので、食べることについては、やはり現地へ行かざるを得ないことになります。

私の専門は中国の文化と文学ですので、コロナが世界を覆うまでは、毎年のように中華圏を旅していました。場所は目的に応じてさまざまですが、一番の関心事はいつでも食事です。青椒肉絲や麻婆豆腐など、日本のものもおいしいのですが、やはり本場は辛さや風味が違います。行けば食べる量も増えますが、現地で動くからでしょうか、特に太ることもなく、いつも帰国するころには肌つやが良くなっています。

むろん、いい話ばかりではありません。中国に留学していた20年ほど前の夏のこと、私は友人と二人で、中国西方の新疆ウイグル自治区を旅していました。ウルムチ、トルファン、クチャ、アクス、カシュガル、そしてタシュクルガンへ。漢族の少ない地域ですので、食べるものといえば、焼いたり煮たりした羊肉と、小麦で作ったナンや麺が主で、野菜も、トマトとナスとピーマンを、塩と胡椒と唐辛子で炒めたものばかりでした。コメもあるにはあるのですが、脂っぽいピラフのように調理され、それらはどれもおいしいものでしたが、さすがに一週間も続くとうんざりします。

途中でどうしても、普通に炊いた白米が食べたくなって、クチャあたりで入ったレストランできいてみました。玉子チャーハンならあるとのことで、しかたなくそれを頼みました。出てきたのは、普通の(おいしい)パラパラのチャーハンでしたが、ふと何かが歯にあたったので、ペッと吐き出してみると、それは黒い小石でした。店のお姉さんに「石が入っているけど」と文句をつけると、お姉さんにはにこやかに「こんなところでチャーハンを頼むほうが悪い」ようなことを言われました。

そう言われて私は、歯も痛いし旅先で疲れているし、何より若かったんですね、「日本でこんなことは、ありえない!」などと、ぷりぷり怒って、ヘタな中国語をまくしたてたのでしたが、いま考えれば傲慢な話です。まだ何者でもない学生が、お米を主食としない地域でお米を頼んで、チャーハンの小石一つに、文句を言っているわけですから。まして歯が欠けたわけでもなし、大げさにもほどがあります。さらにこの一件は、後に「こんなことがあってさ」という土産話となって、いまではすっかり元が取れています。

いつか日本ではないどこかで味わってほしい

つまりは、新疆で食べたチャーハンに石が入ってたよ、というだけの話ですが、いま強く思うのは、その前にチャーハンを食べたくなった状況があって、その流れでの激情やら反省やら、そして後にそれらを語ること、その一連こそが重要なのではないか、ということなんです。それらは繰り返し思い出され、語られ、結果、さまざまあった新疆旅行の思い出の、ひときわ鮮明なものとして記憶されています。

若者の海外離れが叫ばれて久しい昨今ですが、その瑞々しい感性を、安全なレールの上にだけ乗せておくなんてもったいない、そういう話です。とはいえコロナが収まらない限り、渡航など夢のまた夢なわけで、なので、いまはひたすらに「渇き」ながら、外国語を学ぶなどして、基礎体力をつけましょう。そして若いみなさんには、いつの日か必ずや、日本ではないどこかに行って、さまざまな衝撃を「味わって」ほしいと、切に願う次第であります。